お葬式とかお墓ってホントに必要?

「坊主宅配便」「散骨」「樹木葬」etc.の根底にある見方
さて、昨今、巷で流行るものといえば、「坊主宅配便」だったり「散骨」だったり、「樹木葬」なんていうのも登場したり。そこに共通するのは、要するに「お葬式とかお墓とかは、なるべく簡略化したい。そんなに無駄にお金をかけたくない」というニーズではないだろうか。
それは確かに一理ある。そもそも、お坊さんの読経の内容を理解できる人はほとんどいないわけだし、戒名なんてなんでそんなにお金がかかるのか分からないし、お墓を維持していくのも大変だし。だったら、この際、ちょっとでも楽で簡単でしかもお安いほうが、みんなの幸せにつながるのではないか、という考え方だろう。それはそれで分からなくもない。
ただ、それはあくまでも、「人間は死んだら終わりで、あの世なんかない」という見方に基づいていた考え方であることは否めない。すなわち、もし仮に「人間には魂があり、死んだらあの世に還り、そこでの生活が続いていく」というのが真実だった場合、そういったお葬式やお墓を軽んじる考え方には問題があることになってくる。

お葬式や読経の意味って?
例えば、お葬式を営んだりお坊さんが読経したりすることには、亡くなった本人に、「自分は死んだのだ」と気づかせる意味がある。亡くなった直後は、たいていの人は自分が死んだということがすぐには受け入れられず、混乱していることが多いため、自分の葬式が営まれているのを、霊となって眺めていると、「ああ、自分は死んだのか」と、次第に納得できるという。
また、お経の言葉の意味は分からなくとも、お坊さんにある程度の悟りがあり、読経する中に故人の冥福を祈る思いを込めた場合などは、霊となった故人がそれを感じ取り、成仏につながることもあるという。
その意味で、お葬式や読経には、亡くなった人がスムーズにあの世へ旅立てるようにする上で、大切にすべきものであり、「無意味だから簡略化しちゃえばいい」というものでもないと言える。

お墓の意味って?
また、亡くなった人は、通常はあの世に旅立ち、人によって、天国に還ったり、あるいは地獄という世界で反省の時間を持ったりするが、地縛霊でない限り、お墓にしがみついたり、お墓の中に住んだりするわけではない。
しかし、だからといってお墓は必要ないというわけではない。遺された者がお墓参りをし、故人の冥福を祈る時、その祈りはあの世に届けられる。そのように、この世とあの世をつなぐアンテナのような役割を果たす、という意味がお墓にはあるのだ。

現代語で書かれた分かりやすいお経
一方、現行のお葬式やお墓のあり方がすべて正しいとも限らない。例えば、高いお金を払って戒名をつけてもらっても、それが故人の成仏につながるかどうかは定かではないし、あの世や霊を信じていないお坊さんが形だけ読経しても、あまり功徳はないだろう。
幸福の科学では、根本経典『仏説・正心法語』をはじめ、先祖供養の経文などもあるが、それらはすべて現代語で書かれており、亡くなった人も、遺された人も、ちゃんと意味が理解できるものになっている。そこには、人間には魂があること、あの世があること、そして死後は生前の生き方を真理に照らして反省すべきことなどが、分かりやすく説かれている。
お葬式やお墓参りの際に、そうした経文を、もし音読が難しければ心の中ででもよいから、読んであげることは、亡くなった方の死後の幸福に、ストレートにつながっていくことだろう。あるいは、そうした経文の内容を、自分の言葉で噛み砕いて、故人に伝えてあげることでもよいだろう。
それは同時に、自らがやがてこの世を去る時にもスムーズな成仏につながることは間違いないのだから、これぞ一石二鳥。自分の幸福のためにも、故人の幸福のためにも、やって損はないだろう。(etsu)

参考書籍:『正しい供養 まちがった供養──愛するひとを天国に導く方法──』